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パイ

パイ

私が最後にペットを持ったのはもう、40年近く前のことだ。 ずっと犬派で、幼い頃から我が家にはいつも犬がいた。 その最後の犬が旅立つと、少し間を置いてウサギを飼った。 1羽目は早くに死んだので、すぐに2羽目を飼った。 家の中を走り回り、いたずらも多く、可愛いく賢いウサギだったが、飼い主が彼の家来のように振る舞わないと、すぐに怒る威厳のある親分肌タイプだった。 そのウサギも死ぬと、入れ替わりに思いもかけず猫がやって来た。 ウサギがいつも暮らしていたところに親猫が生まれたての子猫を置いていったのだ。 その初めて飼う猫が最後に持ったペットだ。 それは前のウサギと瓜二つの性格だった。 あまりにも似ているので、寿命の長い猫に姿を変えて私達の元に再来したと確信した。
この猫はパイと名付けられ、今までのペットとしては、最も長生きして20年余りの月日を共に過ごした。
内弁慶で、気の強いやはり親分肌の猫だった。 パイがうちに来たのは、私がイタリアに何ヶ月か滞在している留守中だったので、私が帰国してようやく初めて対面すると、パイは即座に私の順位を新参者として自分も含めた家族の中で最も下の地位に位置付けた。

私たちはお互いに自立していた。もちろん、猫という動物を初めて飼い、可愛くて仕方なかったが、私たちは対等だった。 叱るときなど、向こうも負けてはいない。 言い過ぎて私から謝ることもしばしばだった。 プライドの高い猫だったので分の悪い時も、パイから謝ったことは殆ど無い。 ただ、バツの悪そうな顔をしただけである。

猫という動物は人間に近いところを犬よりも多く持っていると思う。 気持ちが通じ合うところや、言葉や状況を理解している点では犬も猫も変わらない。 しかしネコというものは人間のように、利己的で、自己主張も激しい。 そして独立独歩である。 パイは気の強い激しい性格を持っていたから、なおさらのことだった。

そんなパイの生きた20年あまりを思い起こすと、興味深い事がある。 それは、幼年期、青年期、壮年期、老年期がはっきりと感じられ、パイが私に向けた眼差しが、それぞれの時代に応じて変わっていったことだ。

甘えることも多かった幼年期や青年期はよく喧嘩もした。 どちらも本気でやり合う。 そして仲直りをするのがまるでスポーツのようだった。 ところが、青年期を過ぎると、明らかに私の年齢を越えたことが分かった。 その時、私はパイが私より年上になったことを感じた。 相変わらず、プライドの高い猫だったが、時折私に年下の者に対するような優しい眼差しを向けるようになった。 私もそれに呼応して、パイに甘えるようになった。 老年期に入ると立場はさらに逆転する。 私は毎日、「長生きしてね。」 とパイに話しかけるようになった。 パイはなにも言わず 「何言ってるの、この子は。」 とでも言いたげな目で私を見た。 そして、相変わらず淡々と、やりたいことをやりたいようにこなした。

そういった時間の経過とともに 微妙に変わるお互いの関係の変化が私には何か、心地よくて不思議だった。

私は、人がこの世を去った時に、いつも身に染みて思うことがある。 それは、その人がたとえ、私より年下の子供であっても、あるいは生前はとても尊敬できる人でなかったにしても、その死を境にその人が、私を遥かに超えた偉大な存在になった気がするのだ。 その時点でそれまでの私との関係は変化する。 そこで私の見るものは、こちらの世界に未だ留まっている自らの姿だ。 それは実際に見えること、聞こえることにしか確信を持てない、実に限られたものしか分からないあまりにも小さな存在なのだ。
死者は違う。 私達の見えていないところも彼らには見えている気がする。 もっと異次元の、さまざまなことを超越した世界にその魂がある気がする。 その前にあっては、この世界に生きる小さくて無力な自分を思い知る。

20年の間にパイとの関係が変化していったように、人との関係も変わる。 親とは反りが合わずに家を飛び出して一人で生きた人たちを多く知っている。 しかし彼らも歳を重ね、親を失うとやがて亡き父母のことを愛しく思うことが珍しくない。

そんなことに思いを馳せるパイとの20年間だったが、その後、さらに20年が経とうとしている。 未だに次のペットを飼えないでいる。