BLOG

時が流れて

時が流れて

春が近い。 年が改まって小寒に入り、さらに大寒を経て立春に至る。 暦の上では今はまだ冬本番なのだ。
しかし、窓辺を包む光は柔らかく暖かい。 それは疑いもなく春の訪れを感じさせるものだ。 その光を受けて、私は春を予感する。

時間を塊で捉え、そこに目標や希望を置く。 それは半ば無意識のうちに何十年もしてきたことだった。
長いスパンであれ、短いスパンであれ、絶えず将来の時間を塊で区切り、私はそこにいつも1本の旗を立てた。

ところが、最近はあまりその旗を立てなくなった。 歳を重ねたからだろうか。 それともコロナ禍という異常事態に身を置いているからだろうか。 旗を立てなくなって、 一本のレールのように果てしなく続いている時間というものを私は文字通り連続してとらえるようになった。 その時間の上に点在するであろう、今までは指標として掲げていたものを特別なものとして考えなくなった。 むしろ、その下に続いている連続した時間の方が私には大切なものに思えるのかもしれない。

旗を立てていた頃、私は前の旗から次の旗へ向かって全力疾走した。 それが即ち私にとって生きるということであり、そのことによって少しでも真理に近づき、自らを磨きたいと思っていたのだ。 充実感があふれ、私にとって時間は切り取られた塊として常に手の中にあった。 おそらく、その 「切り取られた時間」 とは過去から続いてきた時間ではなく、また将来に連なっていく時間でもなかったような気がする。

人が生きていく時、すべての人に平等に与えられたこの 「時間」 は大切な宝物だ。
今、その宝物を、この歩みの下に確かに感じられるゆっくりと続いているものとして私は感じている。 そこで足を踏みしめてみることも、立ち止まってそれを眺めることも 今の私には意味のあることのように思われる。 これはコロナで 「止まった時間」 を経験したことの結果なのかもしれない。

春はまだ来ないが、そこに続く時間が緩やかに感じられる。 春になるまでにこれをしよう、春になったらあれをしよう などと思わない。 しかし時間は確実にこの下に流れている。 それを踏みしめながら歩を進めていると、やがて春が来るのだ。