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糊しろを持つ

糊しろを持つ

子供の頃、糊とハサミと定規はいつも近くに置いていて、図工の時間でなくてもよく色紙を切って小さいものを作っていた。 私にはそんな工作的な才能が乏しかったが、それなりに少しは想像を膨らませていたように思う。 
そんな時決まって失敗することがあった。 いつも糊しろを十分に取らないのだ。 せっかく完成が近くなっているのに、浅い糊しろのせいで壊れてしまうことが多かった。 

考えてみると、子供時代のそのような失敗は、その後の人生のさまざまな場面にも思い当たった。
例えば、ピアノの練習においても、私は糊しろを取らない。 体力と気力の最後の一滴まで使い果たす。
人には自分の考えを残らず話す。 洗いざらい表も裏もなく吐露することが多い。 ここでも糊しろは見えない。 
レッスンでは、できる限りのことを生徒に伝える。

糊しろとは、つまり可能性だ。 そこに可能性の場所を用意しておくことだ。 人に対しては考える余裕、想像する場を用意するようなもので、糊しろを持つことでそれが双方の潤滑油ともなる。

レッスンにおいて、言葉を選び、全てを語らないことで随所に糊しろを置く。 以前の私は手品の種を明かすように答えを全て提示してきた。 一見親切で、手取り足取りだ。 しかし、それでは生徒の想像力は育たない。 生徒は上手くなったが、音楽性も、楽譜の読解力も、時にはモチベーションまでもを私に全面的に依存していた。
最近はその場その場に応じて少し使い分けができるようになった。 生徒の可能性を見越して、そこに少し糊しろを置くこともできるようになった。  

レッスンをしていて学ぶことが多い。 無意識に表現していたことが言語化される。 私自身、言葉で説明することで、それをはっきりと理論立てて認識する。 
弾いて聴かせる。 相手にどんな風に届くかを想像して弾くことで、表現に発見もある。
しかし、私が納得して満足しているだけではいけない。 もっと先の世界、すなわち、将来この機会で得たなにかを糧に、生徒がさらに限りない可能性を秘めた世界に飛び立って行かなくてはならない。

それには、糊しろが大事なのだ。