長年住んでいる家は山あいに建っている。
坂道を登らなくてはならないし、銀行や郵便局に行くのも、ちょっとした買い物も山を下りなくてはならない。 車を手放した私にはそんな不便さがあるが、春が来れば鶯が啼き、初夏にはホトトギスがやって来る。 私にとっては良い所だ。
何度もリフォームを重ねた家は古くて広いので、マメに掃除をしなくてはならない。 この家の住人と同じくらいここに住み付いているものもいる。
その中に、家中を我が物顔に走り回っているジャグモがいる。 巣をはらないし、グロテスクではないので、蜘蛛の苦手な私でも可愛いと思えるものだ。
巣を張るが怖くない蜘蛛もいる。 よく見ないと見えないほどの小さな蜘蛛だ。 廊下の隅や、柱の陰など一面に巣を張る。 掃除をしても、翌日にはまた立派に巣を張りまくっている困り者だ。
ある時、その小さな蜘蛛の狩の現場に居合わせた。
細い糸で張られた小さな巣に大きな丸虫が引っかかっていた。 さかんにもがくが逃れられない。 私はあのような繊細で小さな巣が重い丸虫を立派に支えているのにまず驚いた。 蜘蛛の大きさから考えるとはるかに大きい丸虫は楽々と巣を突き破って逃げ去ると思っていたからだ。 やがて、そこへ目に見えないほど小さな茶色のゴミのようなものが現れた。 この巣の主だ。 もがく丸虫の周りを回っている。 大きさからするとまるで大きな岩の周りを歩く蟻のようなものだ。 下敷きになったら小さなゴミほどの蜘蛛など、ひとたまりもない。 毒を虫に注いでいるのだろうか? とてもそんな風には見えない。 怖々、虫の様子を見ているのだろうか? いずれ、虫は巣から逃れていくだろうと私は思った。
ところが翌日、巣のあった下には見事なあの丸虫の死骸が落ちていた。 蜘蛛はあの大きな獲物を仕留めたのだ。
先日もこんなことがあった。
朝、掃除をしようとしたら柱の下に茶色の輪になったものがいくつもぶら下がっている。 ヤスデという多足動物だ。 すでに例の小さい蜘蛛にやられてリングのように丸くなって連なって死んでいる。 私は前述の丸虫の一件を思い出した。 夜中にここでも同じようなドラマが起こっていたのだ。 いずれも小さな蜘蛛の勝利だった。 それも今回は幾つもの獲物だった。
自然の掟は厳しい。 食うか食われるかだ。 そこには真剣に命がかかっている。 感傷は存在しない。 彼らはこうして種を守り継いできたのだ。
自然の流れのように私は人間に思いを馳せた。
歴史の中で種を守るどころか、ヒトは同じ人間への殺戮を繰り返してきた。 知恵と呼ぶ特権を持つ人間の変わらぬ歴史だ。 現在もそれは続く。
この夜中に起きていたドラマと、人の繰り広げているドラマ。 この二つを両の手に持って眺める。 与えられる示唆は多い。
もう一つ、私は芸術の世界も三つ目の手に持って眺めた。
そこは自然の掟に支配された世界でもなく、ヒトの持つ特権である知恵や複雑な感情から生まれる殺意の世界ではない。
人の全てを映し出す世界だ。 そこに貯留する透明な上澄み液。 欲、憎悪、慟哭、諦観、歓喜や恐怖、祈り等々・・・全てを呑み込んだ後の上澄み液だ。
それを芸術と呼び、美と呼び、真理と呼ぶ。
これこそ、人間の持つ誇れる特権なのかもしれない。