昨日は節分だった。 節分には豆まきをする。 近づく鬼に豆をぶつけ撃退する一方、福には家に入ってもらおうと豆で招き入れようとする。
節分は1つの区切りだった。 東洋では、節分は去りゆく年に別れを告げ、来たるべき年を迎える時だった。 旧暦の正月である。 過ぎ去った年の災いを鬼の仕業と考え、その邪気を追い払う代わりに福を招き入れ、家内安全を願う。 誰もが持つ素朴な願いだ。
昨日のテレビで、ある幼稚園の豆まきの様子が放映された。 楽しいイベントと分かっていても、鬼が登場した途端、園児たちの表情は一変した。 皆、一斉に後ずさりし、顔には恐怖の表情がよぎる。 泣き出す子もいた。 子供は正直なのだ。
「鬼」とはどういう存在なのだろう?
確かな事は、私たちに災いをもたらす恐ろしいものだということだ。 それは普段は姿を現わさない。 やってくるのは思いもかけない時だ。 不意をつかれて、私たちは恐怖を感じる。 あの園児のように。 想像を絶する恐ろしい形相をして、突然襲いかかってくるのが「鬼」なのだ。
西洋には「悪魔」がいる。 それは各国の伝説にも現れ、文学や音楽、絵画などにも頻繁に登場する。 この西洋の悪魔は東洋の鬼に比べるとその種類や容貌、性格が実に多彩で擬人的だ。 可愛いいたずら者、狡猾な者、神話に登場する神に懲らしめられる者など様々だ。 私には、そこに人間の社会に対峙する悪魔の社会のようなものが形成されているように思える。
鬼は悪魔よりはるかに不可思議なものだ。 どこに潜んでいるのだろう? 混沌とした闇。 冥界。 または、何百年もの歴史を持つ神社仏閣の奥深い梁の陰だろうか。 その存在自体に私は威圧感を感じる。 人間の常識では通用しないような威圧感に恐怖がよぎる。 私にはその恐怖心が、幼い頃から日本の風土とともにあった。 そして、それは絶対的な恐怖だった。
反して「福」はもっと実体のないものだった。 敢えて言葉にすると、それは私たちの住む世界をうっすらと包む目に見えない膜のようなものだった。 しかし、その膜に守られていると、どこかで安堵しているのだ。 普段は意識することのない、まるで空気のような優しさがそこにある。 日常の平和とでもいうのだろうか。 それが私の「福」だった。
この「鬼」と「福」は非常に東洋的なものだ。 私には、それが幼い頃からの日々の生活や空気、感覚的に肌に感じていた自然と 深く関わっていたような気がしてならない。 やがて、西洋音楽の道に進み、毎日それに触れて暮らすようになると、私の中では、この東洋的な感覚が失われたかのように思えた。 しかしそうではなかった。 蓋をしていただけだったのだ。
節分を迎えるたびに、私の中にあったこの東洋的な感覚が、微かに頭をもたげる。
そして、やはり私は日本人なのだと思うのだ。