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座標軸

座標軸

中学、高校生の頃、私は勉強をしなかった。
中学受験を終えて希望の学校に入学したまでは良かったが、そこからは知識や知恵を吸収するべき人生の大切な成長期にあるという自覚が、私には全くなかったのだ。
最初の数ヶ月は小学校の頃の貯金がまだ残っていて、まずまず平穏に過ごしたが、その後は徐々に落ちこぼれていった。

その頃のツケは後の人生で払わなくてはならないことになった。
あの頃ちゃんと勉強していれば、もっと読解力はついていただろう、大切な歴史にももう少し明るくなっていれば、海外に出た時にあんなに後悔しなくてもすんだだろう、といった具合だ。 

最悪だったのは数学だ。 算数が嫌いでなかった私にはどうしてもグラフに抵抗があった。 座標軸というものがあって、正の世界、負の世界を示すという発想を持てないままに事がどんどん進み、拒否反応と混乱だけが私を支配してあっという間に私は置いて行かれてしまった。
最初でそんなふうに躓いたから、あとは基礎を理解しないまま、不理解という雪だるまが大きくなるばかりだった。

大学に入り、教養課程で数学を選択しなくてもいいことが分かり、ようやく数学から解放されると、私は小躍りした。 大学に入ってそれが最も嬉しいことだった。
しかし、昔の不勉強のツケはたくさん払った。 演奏会前になると、いつの間にかトラウマになっていた数学の試験の夢を見てうなされるのだ。 答案を白紙で出さなければならない悲壮感と焦り、劣等感に苛まれ、冷や汗をかいて目が覚める。 夢で良かったと思う。 それは一体いつまで続くのかと思うくらい何年も続いた。

年齢と共に経験も積み、出会った人も増えて、音楽という社会の中で私はさまざまな事を学んだ。 そこには意外なほど、以前拒否反応を起こしていた数学にルーツをもつものが多く含まれていた。 
その一つが座標軸である。

私は今、ものを感じる心にも、思考する脳にも、動かす身体にも座標軸を持つべきだと思っている。
縦軸と横軸が異種の事柄の方向を示し、そこには正の世界も負の世界も置くことができる。 その座標には物事の原因や結果だけでなく、情報も散りばめられている。
そんなたくさんの情報などを抱えながら、座標軸はそれぞれの方向に迷うことなく向かい、心や脳や身体を構築している。

音楽にも座標軸がある。 音符で割り振られる時間は数学そのものだ。 座標軸の中で自由に泳ぐが、その方向、その域を出ない。 その結果、作品は見事な構築物となっている。
それを見据えて音を散りばめ、進めて行かねばならない。
座標軸を持たない演奏は安定感に欠け、刹那の美にとどまる。 一貫性のない演奏は説得力に乏しい。 

昔、あんなに拒み続けた数学だが、こういうことだったのかと今になって納得する。
最近、私の元にはあの悪夢は訪れていない。