人は絶えず様々な事を考える。研究を重ね、工夫を重ね、議論を重ねて進化してきた。長い歴史を振り返っても、文明の発展や変遷に人智の深さを感じずにはいられない。私達は今、情報の渦に囲まれ、IT技術によって世界中がグローバル化された中に現代を生きている。ここ何年かの世の中の変貌ぶりには目を見張るものがある。様々なことが複雑化される反面、多くのことが便利になった。
そして、いつしか人は便利さに安住する様になった。その分、私には、人が本来持っている高い能力が落ちて来たように感じられる。変換に依存した結果、漢字を忘れる、文を書けなくなる。分からないことは自らの手で調べる事をせず、すぐに検索する。ナビを見てばかりいるうちに、道を覚えられなくなる。etc.etc.
一方で、人が作り出すもの、望むことはどんどん複雑化している。仕事にしても、家事にしても、工夫することが複雑化を招いていることも少なくない。例えば、目先の変わった食べ物を作ってみようとする。和洋中華を折衷したり、普段は思いつかないものを加えてみたりする。散々苦労して出来上がったものを、「変わっている!美味しい!」と言って食べる。
ピアノの演奏も、ひと昔前から比べると随分変わった。若い演奏家の技術は昔とは比べ物にならないくらいレベルが上がった。一つのフレーズでも、まだ演奏経験の浅い人達でさえも、考え抜いた表現をするようになった。微妙な音の出し方、音の練り方、時間の使い方がどんどん複雑化している。表現の方法は進化して洗練され、一見、上手い!見事だ!と聴く人を唸らせる。
しかし、最近私は思う。複雑に工夫を凝らした料理より、逆にシンプルさを追求する方が難しいと。本当に美味しい味を例えばカツオと昆布だけで出すのがどんなに難しいことか。またその方法で真の旨みが出た時、その味は紛れも無い本物でそれが料理の真骨頂なのだ。
ピアノにおいて、一つのフレーズをシンプルに弾く。それでいて美しく弾く。美しく弾くために複雑な工夫を凝らす手段を選ばない。つまり、シンプルさを追求していく。それは作曲家が書いたその音符に限りなく近づいていくのではないか。これは複雑化させることより、何倍も難しい。しかし、その結果美しさが得られたとすれば、それは一見地味だが、底から輝いている。
言うまでもなく、このシンプルさはアレクサンダーテクニックに通じるものだ。アレクサンダーの目指したことそのものだと言ってもいい。長年の習慣が積み重なり全てが複雑化されていく。それをひとつひとつ捨ててシンプル化させた結果、人間の持つ本来の力が見えてくる。そんな身体の使い方をする。シンプルさを追って見えてくるものはたくさんある。