<自然界に直線は存在しない>ことを知った時、 私は少なからずショックを受けた。 それまでは直線美に惹かれていたからだ。 幾何学的な模様に見えるものをはじめとして、自然界に存在する様々な紋様には直線が多く含まれ、美しさの源流となっていると思っていた。 それが見事に覆された。
直線と曲線。 なぜ私は直線にばかり目を向けていたのだろう。
整理整頓された直線の清々しさ、なぜか不協和音から解決音に落ち着いた和音のような 安堵感をそこに見ていたのかもしれない。 脱線を避けて、人生を正しく生き抜くための優等生的な倫理観が、私の中で無意識的な願望として直線と重なっていたような気がする。
一方で、曲線を注視しなかった私が、自然界には直線が存在しないと知って、遅まきながらも、絶えず曲線を頭の隅に置きながら生活するようになった。
新たな発見が次々にやってきた。
絵画、とりわけ日本画や書道に見られるような曲線は、限りなく美しい。 そこには作者の息づかいや秘められたエネルギーが潜んでいる。 空間も生み出される。
私の発見の一つは曲線とは一種の「歪み」だと気付いたことだった。 そういえば歪みは至る所にあった。 例えば、音楽の中には終始「歪み」があった。 ルバート然り、テヌート然り、あらゆる表現の裏にはいつも「歪み」が存在していた。 それが曲線を描いて、旋律を柔らかくし、かつ表現を深くする。
話す言葉も同じだった。 音楽と同じように、まさに音楽におけるルバートを使って自然に言葉が発音される。 そこに描かれる曲線次第で、思いが変わり、表情が変わり、会話の質が変わる。
あらゆる芸術に見られる ”遊びこころ” は、元はと言えば「歪み」から生まれる。 そこから未知の可能性さえ生み出されるのだ。
アレクサンダーは首から背中を通る30余りの椎骨の連なりが示す曲線を重視した。 ここから正しい方向性(direction)がアレクサンダー・テクニックにおいて示される。
全てが直線を持たない自然界の理にかなったことなのかもしれない。
曲線とは限りない可能性とエネルギーを秘めている。