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練習すること

練習すること

ピアニストはいつだって練習と隣り合わせで暮らしている。
ピアノという楽器は、読む音の数が旋律楽器に比べてケタ外れに多い。  それを一つ一つ読み、88鍵の上を走る指に覚え込ませる作業には根気強い練習が必要だ。

若い頃、私は練習が嫌いだった。  おそらくほとんどの人は同じだっただろう。  それが、ピアノを真剣に勉強するという目的意識を持った途端に、練習量がずいぶん増えた。  しかし、その時の練習が正しく行われていたかどうかについては、甚だ自信がない。   なぜなら、この歳になって、今練習というものに驚嘆と畏敬の念を抱いているからだ。

かなり早い段階で、私は無駄な練習、逆効果を生む非生産的な練習があることに気がついていた。  あくまでも練習は音楽に根差したものでなくてはいけなかったし、音楽理解を持たない指の訓練は避けるべきと理解した。  それは私が手の故障を抱えたからで、長く抱えることになった手のトラブルが私に教えてくれたことだった。
そして、おそらく私は心のどこかで練習による効果をあまり信じていなかったのだと思う。  私にとっての練習は、抱えている多くのプログラムを潤滑にこなしていく目的でしかなかったのだろう。  理想を持ちながら、その理想に近づくために、問題のある箇所を根気良く繰り返し練習する手段を私は選ばなかったのだ。

練習が思わぬ効果をもたらすことを教えてくれたのは、年齢を重ねたことによる身体の退化だった。  少し意味合いが違うので敢えてここでは「老化」という言葉は使わない。  老化に見る一般的な意味での身体の衰えではなく、あちらこちらのパーツが変形したり、その動き方が変わったりしたのだ。  例えば、指の関節が腫れて曲がってくる。  するとオクターブ以上の和音をを打鍵する時、指の開きは当然以前よりは縮まっている。  寸法が変わった分、届かなかったり、ミスタッチが断然多くなったりする。  関節にも腱にも筋肉にも様々な変化が起こり、早いパセージが揃わなくなったりスピードが目に見えて落ちたりする。

絶望に近い思いを抱きながら 演奏活動から引退することも視野に入れ、それでも練習は続けた。  何十回と反復する形ではないが、 とにかくうまくいかない箇所を、根気よく毎日練習したのだ。  半年、1年が過ぎた頃、突然ある瞬間が訪れた。  諦めていたところが急に解決したのだ。  1年半がたつと、ほとんど理想的な速さが手の内にやってきた。  若い頃は1ヵ月もかからずに到達した地点だった。  私は退化したパーツを抱えながらも、1年、2年のスパンであっても、練習を積めば、思う段階に到達することを学んだ。  練習の効果を信じたこともなく、経験したこともなかった私にとって、これは驚きだった。

練習において、もう一つ発見があった。  それは、練習量が、必ずしもその効果と比例するものではないことだった。  むしろ、 ゆっくりとしたペースで長い期間練習を積むと、確実にその効果を手にすることができることがわかった。  まるで、練習したことが日数をかけて、ゆっくりと細胞に浸透し、栄養になっていくような感覚だった。  量より時間がその効果を確実にすることもある事が見えてきた。

絶望は思いがけず、練習によって払拭された。
年齢を重ねることはこういう事なのかもしれない。  次々と新しい景色が見える。