BLOG

記憶の足跡

記憶の足跡

人の持つ「美」の記憶 とは曖昧なものだ。

このことを実感したのは、最近、私が中学時代から10年間過ごした母校が某雑誌に取り上げられた時だ。
キャンパスは群を抜いて 美しいと言われる。  後年それは重要文化財となった。  広い敷地内には、その伝統を感じさせる味わい深い建物が並び、そこは 廊下を飾るアーチ、 柱に施される彫物、七彩に光る瓦に至るまでその隅々に荘厳なまでの威厳を滲ませていた。  しかし、私はその稀有な美しさに深い感動を覚えることなくそこに丸10年通い続けた。

この雑誌についての同窓生達の反応は 大きかった。  卒業後、何十年も経ってからの母校のキャンパスに対する世間の賞賛が嬉しかったのだろう。  そして、皆異口同音にこう言った。  「当時は猫に小判だったのね。」

なぜ、「猫に小判」だったのか。  ティーンエイジャーの少女にも美しさはわかるはずだ。  むしろその年代は多感で、美しいものを大人よりも敏感にキャッチする。  私たちは小判を見せられた猫ではなかったはずだ。

誰でも感性を持っている。  ただそれは人によって千差万別だ。  広い視野を通して、そこに感性のフィルターをかける人もいれば、視野が狭くても深く踏み込む人もいる。  そこがぼんやりとした場所だったり、鋭いアンテナを何本も持っていたりする。  感じた事を、即刻打ち消す力を持っている人もいる。  そのような人は、たちまち全身を巡る神経を中和させて、 何事もなかったように今までの生活を続ける。

私の10代の頃は、ハリネズミのように全身が鋭い針で覆われていた。  そこから入ってくるものは、美しいものでも、攻撃的なものでも、すべて感性の渦巻く畑に突き刺さった。  ただ、その畑は狭かった。  そして 確かな判断力を持たない曖昧な世界だった。  後年、そこにやがて1本の道筋がつき、その道端に様々な 世界が広がっていった。  つまり、許容量が増えていったのだ。  そのような時代を私はそのキャンパスで過ごした。

記憶として、心に沈殿する美は当時の周りの状況や心身の在りように大きく左右される。
人の持つ感性という領域は時間と共に絶えず変化する。  生き様を大きく変え、幸せを招くこともあれば不幸に堕とし入れることもある。

今、私は母校のキャンパスを見て美しいと思う。  これは私の成長の証なのだろうか、それとも当時のぼんやりとした苦しみを消し去ったからだろうか。