風に舞った楓の赤い落ち葉が、まるで道案内人のように私の前を進む。 そんな光景から1カ月、年が明けた。
年が明けても、あの夕日に、朝日に透けて輝いていた赤い葉っぱ達は、風に掃き溜められて木の袂にうずくまっている。 人の手の届かない川べりで、いつしか土に還ろうとしている。 冷たい空気の中で、そこにぬくもりさえ感じられ、私に素直な心を取り戻させる。 自然の営みは厳しいが、こんな優しさもあるのだと、ほんのりと嬉しい。
遠い幼少期にそうだったように、自然の織りなす風景や、自然が放つ空気、匂いなどを受け取り、それを屈折させることなく心にキャッチしたことを、私は懐かしく思い出した。
あの頃は、今に比べてもっと透明な目を持ち、雑念や雑欲にまみれない感性を持っていたのではないか。
私は幼少の日に見た落ち葉を思い返してみた。 微かに孤独の匂いがした。
毎日私が対峙している偉大な作曲家たちは、そういった感性を五線紙に投影したのだろうか。 そこには今、私が思い出した孤独が滲む。 美しくも哀しいメロディーが紡がれる。 その奥に、天才たちの屈折のない感性が隠されている。
それを掘り起こして音にする時、現代に生きる私たちもやはり、同じような感性を持って再現させなければならない。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、以前フィンランドで買った一枚の絵葉書を思い出した。 それはシベリウスが、冬枯れの白樺の林の中を後ろ手に散策する後ろ姿だった。 少し前傾の巨匠の後姿からは、深い思索と孤独が思い測られた。
そこに同じようにベートーヴェンを、シューベルトを、ショパンを、さらにブラームスを重ねてみた。 天才作曲家達の音が聞こえてくるようだった。
年齢を重ねると人は子供返りするという。 少なくとも音楽に向かう時だけはそうあって欲しい。 幼少期の感性を取り戻したいと願うのだ。