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「裏」を考える

「裏」を考える

何事にも表と裏がある。

「表」 は本来の姿として我々の目に入る。  本の表、布地の表、包装紙やカードの表など、具体的な形のあるものから、投げかけられた言葉や流れてきた旋律、初めて目にする文章なども、「表の顔」 としてまず私たちの中に入る。  それは第一番に印象や記憶に残る主役の顔だ。

この 「表」 にはしかし、すぐには目に入らない 「裏」 の顔がある。  本にも裏表紙があり、包装紙やカードにも裏面がある。  言葉や旋律にも裏に様々な意味が隠されている。
「裏」 には、とかく悪い印象がつきやすい。  「裏道」 は暗いイメージだし、例えば 「裏工作」 や 「裏をかく」 など、陰湿な意味合いを持つものが多い。
ところが、陽の当たりがちな 「表」 に隠れたこの 「裏」 には、大変味わい深いものがある。  とりわけ抽象的なものの裏には未知の世界が隠されていることが多い。  それを追いかけてみるのは興味深いことだ。

演奏会前、たびたび録音をして自らの演奏をチェックする。  最近、このチェックする事のほとんどが、所謂、裏であることに私は気が付いた。
例えば拍子の裏。  3拍子だと3拍目、2拍子だと2拍目だ。  ほとんどが、小節線の間際になる。  言い換えれば、表の拍から見ると、裏のほとんどが盲点に近い隠れた場所だ。  さらに、音符にも表と裏があって、強拍にも裏がある。  小節線の間際は拍子の裏と音符の裏が重なる。  そこでは、意識も音楽もすでに次の小節の頭の強拍に焦点が当たっているため、この裏が重なった部分はほとんど見えていない。  拍をつないで歌い語られる旋律も全て音符の裏で支えられている。  この音符の裏も意識されることが少ない。  テンポもそこで狂いやすい。

昨今、私は 「裏」 の持つ意味の深さと、そこから繰り広げられる限りない可能性を感じている。
旋律を歌い切れない。  音楽が四角四面で硬い。  このようなジレンマに陥った時、歌の途中のある拍の裏にほんの少し腰掛けるだけで、世界が一変する。  全てが潤いに満ちる。  旋律が柔らかく展開し始める。  音楽が息を始める。  そして、その腰をかけた裏の部分に、思いがけない感情が宿る。  例えば、戸惑いだったり、至福感だったり、諦めだったり。  それを聴いて、私自身が驚き感動する。  そこからまた次の歌へと繋がっていく。
小節線の間際だけでなく、あらゆる 「裏」 をみつけてはそこから新しい顔を掘り起こしていく。  こんなところに作曲家の真の意図があったのかという気付きも珍しくない。
これは心踊る作業だ。  「裏」 はなんと偉大なのだろう。

きっと生きることもそうなのだ。   私自身、様々な 「裏」 の顔に支えられている。  目に見えない 「裏」 の働きが生活に潤いを与え、平凡な最高の幸せを私に与えてくれているのだろう。