山あいの自宅からどこかに出かける時には、必ずバスで最寄りの駅に行き、そこから電車に乗って目的地へと向かう。 この行程は子供の頃から変わらない。 歩ける範囲で買い物や雑用をすませたいとよく思ったものだ。
ローマに住んでいた頃はそんな不便さが解消された毎日だった。 歩いて数分で必要なものは揃ったし、バスの停留所もいつもすぐ近くだった。 それが当たり前になると、有難いことだとも思わなくなった。 慣れとは不思議なものだ。
バスや電車に乗ることが日常の私だが、乗り物の中の風景は以前から考えるとずいぶん様変わりした。
車内では、ほとんどの人がスマホを覗き、忙しく手を動かしている。 ゲームに熱中する若者が多かったが、最近では誰かとさかんに交信している人が目につくようになった。 先日もバスの隣に乗り合わせた中年の女性は駅に着くまでの20分間、ずっと誰かと交信していた。
交信の言葉は短い。 聞けば、長い文章は読みにくいという。 一目で分かるよう、単語に近い言葉でメッセージをやり取りする。 これが現代人のコミュニケーションのスタイルだ。 なんでも簡単に分かりやすく伝える。
見ているのはスマホの画面での短い言葉。 相手の表情も眼差しも反応も現れない。
言葉を交わさなくても、相手の目を見るだけで気持ちが分かる事がある。 それで一気にわだかまりが解けたこともある。 そのような無言の言葉はスマホ上にはない。 そのかわり、相手から読み取る表情や、声の抑揚から感じ取る余計な推測も生じない。 気持ちの裏をかいたり、かえって不快感を呼ぶ想像もしない。 機械を通しての短い交信はさっぱりしているのだ。
もう10年以上前のことだ。 ある職場で隣同士の席で仕事をしている社員がメールだけでコミュニケーションを取っている話を聞いて驚いたことがある。 当時はなんと殺伐とした風景だろうと、寂しさを感じたが、今では友人や知人同士が事務連絡ではないやり取りを文字で行うことが当たり前となった。
コミュニケーションの根っこを考えてみる。
コロナ期に浮き彫りになったように、それは人間には欠かせないものだ。 人は独りでは生きられない。 「人」という字は二人の人がお互いに寄りかかっている様を表しているとも言われてきた。
その接点に絶えずあるのはコミュニケーションだ。 そこには言葉を使わないスタイルが幾つもある。 スキンシップやアイコンタクト、離れていても心が通い合う以心伝心などという不思議な現象などだ。 どれも私にとっては、いつまでも心に残るものだった。
現代人のスピード感あふれる短い単語でのコミュニケーションも心に残っていくのだろうか。 スマホやタブレットという小さな入れ物に浮かび上がっては連なる短いメッセージの数々。 そこに残されるものは何だろう。