人は見えないものに憧れを抱く。
カール・ブッセは書いた。 “山の彼方に幸い住む” と。
まだ地球が丸いとされていなかった頃、人々は水平線の向こうに何があるのかと考えた。 人々の想像力をかき立て、美しい世界を想像した。
人は見えないものに怖れを抱く。
まだ地球が丸いとされていなかった頃、人々は水平線の向こうには恐ろしい世界があると考えた。 人々の想像力をかき立て、たちまち呑み込まれる滝を想像した。
人はしかし、見えないものに向かって歩いていく。 彼方にあるものに向かって歩いていく。
時間も共に進む。 人と一緒に彼方の見えないものに向かって進んでいく。
憧れや怖れの入り混じった、見えない彼方がある。
ふと立ち止まって来し方を眺める。 そこには、はっきりと形になった過去がある。
手に入れた宝のようなものがあれば、 失ったものもある。 美しい思い出があり、苦い過去がある。 人と交わした熱い信頼があれば、 悲しい別れもある。
すべてを背に負い 、反芻しながらまた彼方に向かって歩き始める。
音楽もまた彼方に向かって歩く旅だ。
時間と共に進む。 音と共に彼方の見えないものに向かって進んでいく。
しかし、音楽は立ち止まって過去を振り返る事はしない。 すべては彼方に向かって進む。
過去を振り返らない代わりに、音楽は過去の全てを孕む。 それは、作曲家の思いにとどまらず、演奏者や聴く者すべての思いを抱くほどの深い懐だ。
やがて、懐に抱かれたものは全て美に昇華され、 芸術は完成する。
人はそこに人生の旅路を重ねる。