私たちの日常には思い込みが溢れている。
そのことを痛感するのは、ピアノを勉強する時だ。 録音をして客観的に聴くと「弾けていた」 と思い込んでいた事が実はそうではなかったことが明らかになる。 しかし、この類の思い込みはすぐに気づきを得て修正の道に入れるのでさして気にはならない。
こんな事実がある。
私の両眼は左右微妙に違った色に見えている。 数年前に白内障の手術の際に入れた眼内レンズの 違いのせいだ。 少し時期をずらして手術を受けたので、2回目のレンズは 1回目のレンズと違うメーカーのものになってしまった。 私は強度近視だったので同じ種類のレンズは入手が難しかったらしい。 終わってみると、左目は明るく、白は鮮やかでまぶしいばかりに世界が輝いていた。 一方で 右目は落ち着いた色だった。 左に比べ白は少しグレーがかっていた。 カレンダーを見ると、左右全く違う白だった。 最初はその違いに驚いたが、両目で見ることもあり、すぐに慣れて気にならなくなった。
ここで考えてみると、おそらく空がどのような青に見えているのか、花がどのような赤で、またはピンクで 目に映っているのか、それが人によって違っている事は想像に難くない。
人だけではない。 動物によって見えない色もある。 ヒトには聞こえない音が聞こえている生態系もたくさん存在する。 彼らはおそらく私たちの予想もつかない全く違う世界に生きているのだろう。
しかし、私たちは それぞれが思い込んでいる色や音の物差しを持ち、おそらくは他の人もそれを共有しているという前提で話したり判断したりするのだ。
そんなふうに考えると、日常は思い込みの壁に囲まれている。
人と人の関係において、この思い込みの壁が問題を引き起こす事がある。
人が 同じような感受性を持ち、同じように理解するという事はおそらくありえない。 私は今までに、良かれと信じてやっていたことや、言ったことが実は相手にとっては私の信じるところとは正反対の事だったということが何度もあった。 逆もあっただろう。 そして双方が深く傷ついた経験もある。
この思い込みの壁をすり抜けるには、たくましい想像力と思いやりが必要だ。
音符に向かっていると、自らの思い込みが想像力を萎ませていることがよくわかる。 それは音符の扱いや、タッチ、 ペダリングやフィンガリングなど随所に見られる。 その思い込みを取り払うと瞬く間に新しい世界が広がる。 私には目を見張るような、可能性を秘めた素晴らしい世界だ。 そこからまた自在な想像力が生まれる。
思い込みの壁に囲まれながら、音楽で得る想像力を生きる術にも活用していきたいと思うこのごろだ。