脳科学は日に日に凄まじい勢いで進歩している。 絶えず新しい発見があり、過去の常識が塗り替えられる。 いまだに我々の脳の多くの部分が未知の部分であることを考えれば、それは当たり前なのかもしれない。 人間の脳ほど高性能で複雑なものはないのだ。
私はそんな脳科学の新しい情報を垣間見るのが好きだ。 いつもその情報に自らの脳を重ね合わせてみる。 すると今までにない景色が見えてきたりする。
10代の頃、進むべき進路を決めるのに、よく「文系」と「理系」 という区別がされていた。 本当は「理系」の人がつまらない見かけの理由から自分は「文系」だと思い込んでいたり、 逆に「文系」の人が「理系」の道を選択したこともあった。
私には数学アレルギーがあったから、当然「文系」だと信じて疑わなかった。 芸術の道に進んだのでそれでよかったと長い間思っていた。
今振り返ると、それは単純な分け方だったように思う。 なぜなら、それは人間の脳のタイプを ざっくりと分けただけの話であって、その働きぶりや変貌の可能性を視野に入れていなかったからだ。
日に何時間か芸術活動しているせいもあるが、私の脳は「文系」になったり「理系」になったりしている。 おそらく意識的に脳の使い方を変えている。 「文系=芸術系」の脳になっているときは、頭の中にはたくさんの空間ができている。 ファンタジーやイメージがその枝をどんどん伸ばしていけるような許容空間だ。そこに暫し留まって、その行方を追ってみる。 ぼんやりとした正体のない時間もその空間には含まれている。 理論の通らない、数字では割り切れない、構図を持たない世界だ。その世界に入ると、意識をして「理系」の脳にならないように気をつける。
事務的な仕事や、限られた時間内に次々と雑用をこなしていくときは「理系」の脳になっている。 この時は「文系」の脳にならないよう気をつける。ピアノを弾いていても、曲の構成を描きながら進むときは「理系」の脳にする。テンポを厳しく維持する時も「理系」だ。 考えてみると、音楽作りの工程はほとんどが「理系」の脳を使って行われる。 これはピアニストになってみなければ わからないことだった。 そういえば、はるか昔の数学者や哲学者は同時に音楽家だったのだ。
しかし、 音楽を聴くときは「文系」の脳でありたいと思う。
高性能の脳は果てしない可能性を持ち、 些細なことさえも幸せに変える力を持っている。
AIの進歩も凄まじいが、そんな人の脳の無限の可能性に夢を託したい。