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生命を吹き込む

生命を吹き込む

私は料理するのが嫌いではない。 元来、少食ながら食べることが好きで、いつも美味しいものを食べたいと思っている。 しかし私が料理をする時、「美味しいもの作りたい」というのは第一の理由ではない。 まず食べる人の顔が浮かぶ。 その顔がほころぶのを想像する。 喜んで欲しい。 そんな強い願いが第一の理由だ。 そして時間をかけてもせっせと作っている。

不思議なことがある。 それは自分のためだけに料理をする時、その出来映えは情けないほどひどいものだという事だ。 不味くて食べられない。 まるで料理というものを知らない人が作ったようだ。 いつもの私とは別人なのだ。
その原因は明らかだ。 気持ちがまるで入っていないのだ。 自分の「餌」を仕方なく作っている。 美味しいものができるはずはない。 留学していた頃の一人暮らしはそんな日々の連続だった。 ピアノの勉強に明け暮れ、食事作りどころではなかったが、理由はそれだけではない。 不味いものばかりなので、やせ細ってしまった。

いつかのドラマで、和菓子職人があんこを作るときに、「美味しくなーれ、美味しくなーれ」と言いながら餡を混ぜていた場面が評判になった。 私もそれを見て少なからず感動した。 共感もした。 彼は餡に生命を吹き込んでいたのだ。 生命を吹き込まれた餡はどんどん美味しくなる。
こういった事は、料理に限らず様々な場面に見られる。 例えば植物は愛情をかければかけるほど、それに敏感に応えて美しく花を咲かせる。

楽器も同じだ。 楽器というものはとてもデリケートなものだ。 そこには確実に魂が宿っている。 そしていつもそこに生命が吹き込まれる時を待っている。 古い整備されていない楽器も、そこに生命を吹き込めば驚くほど良い音を出してくれる。 音の狂いなど気にならない。

表現というものには不思議さと奥の深さがある。 音で表現する時、まず技術で音楽を作り上げていく。 指の動きだけでなく、音の質や音量の幅、色などに細かく配慮しながら表現を目指す。 ここで大切なのは、何をもって「表現」というかだ。 私はいつも質の高い表現を目指してきた。 形に歪みがないように気を配り、美しい音を求め、それが美につながるように心を砕いてきた。 それが理想の形に近づいた時、ほぼこれで完成に近いという達成感のようなものを持ち得た。

しかし最近ではこれで満足できなくなった。 これが本当に人の心に届くだろうかということを真剣に問うようになったのだ。 形が完成されていても人の心に届かない演奏はたくさんある。 なぜか。 それは最後の段階でその表現に生命が吹き込まれていないからだ。 生命が吹き込まれた音は、その瞬間にその形を変える。 生き物になる。 向こうから語りかけてくる。 そして聴く人の心に向かう。

楽器も音も生きている。 そしてそこに生命が 吹き込まれた時、それは震えるような感動とともに弾く人の心も、聴く人の心をも魅了する。