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自分を見つめる

自分を見つめる

子供の頃から「自分]というものを深く感じていた。
それは、私にとって不思議な存在だったが、いわゆる自意識というような類のものではなかった。 まるでもう1人の自分がどこかにいる。 しかしその姿は見えない。

何かを感じる自分も、考える自分も、それは姿の見えない不思議な存在だった。
そのうちに、その見えない自分が、実は鏡に映っている自分とは全く違うものであるということに気がついた。 人と話している時、人は鏡に映っているような私と話しているのだろうか、それとも私の中に感じている別の自分と話をしているのだろうか。 ふとそう考えた時、私は姿の見えない自分と話をしてほしいと思った。

その見えない自分が何人もいるかのように感じられることがあった。 例えばこの人と話している自分と、別の人と話している自分は違うのだ。
環境やその場の状況によって自分も変わる。 話す相手によって違う自分が現れる。

10人の生徒をレッスンする時、私は10通りの教師になる。 不思議なほど教え方が変わる。 同じ生徒には何度教えても、同じ口調で同じように音楽を分析し、決まった視点でレッスンをする。 それが10人教えればそれぞれみんな違う。 あまりに違うので、いつも同じ教師でいることのできない自分に戸惑った時期もあった。

優しくなれる人と、優しくなれない人がいる。 同じように、一緒にいると素直になれる人と、なれない人がいる。 
人にはそれぞれ生来の波長や波形というものがあって、それは千差万別だ。 その波長によって、こちらの波長も変わり、いろいろな自分が現れる。

鏡に映る自分に宿る別の自分は、決まった形のない、まるでアメーバのようなものだ。 人は学習や反省を繰り返し、知恵を高める。 しかし、そこには限界がある。 なぜならこのアメーバのような目に見えない自分というフィルターを通して常に物事を考え、行動しているからだ。

モーツァルトを弾く。 モーツァルトの音楽に対している自分は、ショパンを弾くときの私とは全く違う。 ベートーベンを弾く自分も別者だ。 シューベルトには格別の思いを持つ私がいる。 このフィルターの違いでタッチも音色も変わる。 すべてがかけがえのない作曲家だ。 対するそれぞれの自分をも愛しく思い、大切にしていきたいと思う。

これも自分流の音楽の楽しみ方の1つなのかもしれない。