まだ10代の頃、私は表現することが苦手だった。 まず、表現に至るような、はっきりした意思を持てなかった事もあったが、たとえそれを持っていても、言葉でうまく伝えることが出来なかったもどかしさを今でも覚えている。 この年齢になってその頃の情景がよく思い起こされ、あの時こう言えば良かった、はっきりとこんな風に伝えれば良かったなどと思う。
しばらく経ってある大人から、「はっきりと言葉や行動で示さないと、思いは人に伝わらない」 と教えられた。 そんなことは当たり前だと思っていたが、実際にやってみると難しかった。
表現することには二つの壁がある。
一つは表現すること自体を自分の中でイメージなり、言葉なりで、はっきりと持てないことだ。 これについては、日本人はあまり得意ではない。 意見を求められると、多くの人はまず周りの人たちの顔を見る。 人の意見を聞いてなるほどと思うが、その真逆の意見にも、なるほど、と思ってしまう。 どちらでもいいという、曖昧な思いを持つ場合も多い。 多くの日本人は海外で議論ができない。 経験を積み、それなりの考えがはっきりしていても、国内ではそれをうんと柔らかく言わないと周りの人たちに敬遠されがちな風潮もある。 そんな雰囲気がますます日本人を風見鶏的な中間色に染める。
もう一つは表現の手段が不器用だと言う点だ。 例えば、海外の地で、「あなたは何が食べたいですか?」 と聞かれる。 よく分からないので、「何でもいいです」 と言う人が多い。 現地の人から見れば、日本人とはなんと個性のない、自分の意志をはっきりと表さない曖昧な人種だろう、と思う。 もちろん、言葉の壁もあるが、もっと本心を探っていけば、この「何でもいい」 という答えは、「よく表現できないから、答えることを放棄したい」 ということなのだ。 苦労して言葉を選ぶくらいなら 「何でもいい」 という答えでお茶を濁しておいた方が楽だという思いだ。 ここで、何とか思いを伝えたいと思う勇気のある人はこんな答え方をするだろう。 「私はこの土地のことがよくわからないので、何が美味しいのか分かりません。お薦め料理は何ですか? あなたに選んでいただけたら嬉しいです」 。 これは立派な意思表示が明確に表現された姿だ。
私は、この二つの壁を越えるのに、どちらも相当な時間がかかった。
しかし、越えてみると表現不可という消化不良から解放された快感は大きいと感じる。 風通しが良くなったという感覚だ。
音楽も最終的には表現だ。 イメージや感覚を持っていても、表現できなければ何も生まれない。 その間には手段としてテクニック(技術)が大きな位置を占める。 ともすればそれに終始し、それが最終の到着地であるかのような錯覚に襲われる。 心に感じたイメージやインスピレーションを音に乗せるには、それを煮詰めていかなくてはならない。 はじめはモヤモヤとした実態のないものだ。 それを心の底を覗くように直視する。 それは手を離したらすぐに去っていくような不安定なものだが、集中して追っていくことは楽しい作業でもある。 歌詞のついている歌はそれを詠む詩人になりきる。 私の手がけるピアノ曲には歌詞が付いていないので、時々歌詞をつけてみて表現の手がかりにする。
ここでもある表現が生まれた時には快感がよぎり、風通しの良さに酔う。
表現することは生きていく上でも大切なことだ。 人とのコミュニケーションが弾む。 自分の心が見える。 人の心も見える。 オープンにすることで色々なことが回り始めることもある。 そんな風通しの良い人生であってほしい。