最近、といっても、もう10年、20年くらい前の時の感覚だが、急に 「癒される」 という言葉が頻繁に使われるようになったように思う。 演奏会の後に 「癒されました。」 と言われることが多くなり、それからは新聞やテレビなどでもその言葉が多く聞かれるようになった。 それ以前は 「感動しました。」、 「力と勇気をもらいました。」、「思い出と重なり、泣けてきました。」 などという表現が多かった。 それが、近頃はほとんどが 「癒されました。」 という言葉で表現されている。
音楽を聞いて癒され、美味しいものを口にして癒され、旅をして癒される。 人はそんなに苦しい思いをして毎日を生きているのかと思ってしまう。
「癒される」 ということは一体どういうことなのだろうか。
音楽で鳥肌が立つほど感動することがある。 琴線に触れるともいう。 その感覚に嵌ると、まるで別世界に連れて行かれたように、ほとんどエクスタシィの域に入る。 世界が変わる。 時間が止まる。 その感覚に酔いしれる。
しかし私はこれを癒しとは呼ばないだろう。 これはまさに芸術の持つ麻薬的な力によって魂が奪われた状態なのだ。
そしてこの世界に出会うのはそう何度もあるものではない。
一方、誤解を恐れずに言うと、癒しはどこにでも転がっているものだ。 ふとしたことでも人は癒されると言うだろう。
人は何に癒しを感じ、何故、どうやって癒されたいと思っているのだろう。
私の考えでは、まず共感するということだ。 共感を得ると言ったほうがいいかもしれない。 その人が抱いている思いが音楽や、空気や、食する味覚でその思いを共有することから始まって、次に肯定され、そこに寄り添ってもらっているという感覚になる。 カウンセラーがまずその人に同化し、その思いを否定なしに共有し、共に歩もうとするのに似ている。 そこから、その人は心を開いて治療へのスタート地点に立つことができる。
そこには自らへのねぎらい、赦しが感じられ、抱える傷や疲れを暖かく無言で包んでくれるという思いがある。 無条件で休ませてもらうという感覚だ。
それまでの人生での思い出と重ね合わせるということも大きな要因だ。 そこに重なった思い出とそれに伴う悲しみや苦しみ、あるいは喜びが再現され、音楽や旅や味覚がそれを共有してくれることで、溶けていくような安堵感に包まれる。 美しい、心地が良い、美味しいと思う。
その人の目線で考える、感じる、理解するといったことが癒しの条件になる。 そこに見えるのはストレスに弱い現代人とその生活ぶりだ。
ほんの一瞬、思い出や苦しみや不安を共有してもらい、美しいメロディーで暖かく無条件に包まれると、そこに癒しがあるのだろう。 癒しを与えるということは、現代日本ならではの音楽のミッションなのかもしれない。
私自身は生来、闘うことが好きな性分なので、今のところは音楽で癒されたいとは思わない。 深い感動は持ってもそれを癒しとは思わない。 旅をしても、寧ろ普段は隠れている孤独や厳しい自然などの正体が見えるような気がして、癒された記憶はない。
しかし、私の演奏で聴く人が癒されるなら、こんな嬉しいことはない。