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ロープウェイがすれ違って・・

ロープウェイがすれ違って・・

長年ピアノに付き合っている。
”お稽古”から真剣な勉強になり、やがて仕事になって時が流れた。 仕事といっても、結局は日々の勉強の積み重ねなので、真剣な勉強の伏線に仕事があると言っていい。 全てが自己責任で果実を受け取る代わりに、さまざまな理由でうまくいかない時には、その代償は自らが全て負う。

うまく行かない時の理由は色々ある。 環境の問題もあるし、身体的な故障もある。 集中が途切れたり、士気が下がることもある。

演奏家の道は険しい。 アスリートのそれと同格だ。 アスリートと違うのは引退がないことだ。 たとえ引退があってもそれは随分年齢が上がった場合や致命的な病を得た時だろう。
なぜ険しいかといえば、それは絶えず自身と向き合っていかなければならないからだ。 精神と向き合い、身体と向き合う。 両者が最上の状態で噛み合わないと演奏活動は難しい。

時と共に音楽は練られ、熟成し、深化する。 一方で身体は時と共に老化し、筋肉は最盛期を過ぎると下降線をたどり始める。 筋肉だけではない。 他の身体的機能や記憶力なども退化していく。

この深化と退化はまるで、上りと下りのロープウェイが途中ですれ違うような関係だ。 音楽人生の何処かでそのすれ違う時が来る。

その地点が来ると、興味深いことがたくさん起こる。 それまでは想像もしていなかったようなことだ。 例えば、「動いていた」手を「動かす」手にしないといけない。 つまり、それまでは練習の成果としてほとんど無意識で鍵盤上を走り回っていた手を、意識して頭を使って動かさなくてはならなくなるのだ。 そこに必要なのは楽譜を解析したり、正確に解釈してそれをより合理的に動きに結びつける知恵だ。

「動いている」手を使うのは楽しく快感さえ感じるものだ。 その動きに乗ってリズムやテンポの切れ味に挑戦する。曲芸師のようなスリル感もある。
その無条件で「動く」手がロープウェイがすれ違って以降、その魔法を返上しなくてはならなくなる。 そのことに気付いた時には殆どの場合、落ち込むことになる。 テクニックが落ちた、老化が来たと暗澹たる気持ちになる。 舞台で失敗したりすると、そのまま活動を止めてしまうピアニストもいる。 ピアニストという種族は殆どが完璧主義で自意識も高い。 だから、このロープウェイのすれ違いには仰天するのだ。 そして悲壮な気持ちで降りてゆくロープウェイを見送る。

「動いて」いた手を「動かす」ことに転じると、色々な気付きがある。 それが悪いことばかりではないことが分かるのは、かなり時間が経ってからだ。 手を動かす意識を持つことで、音がそれまでより聴こえるようになる。 合理的な指や腕の使い方を編み出すきっかけになる。 その合理性は音楽を構築する上でも役に立つ。 様々な工夫が技術的にも音楽的にもなされる。 こうして、音楽は深みを増すことになる。

音が以前より聴こえてくると、同時に満足できる線がさらに上がるので、またそこを目指して苦しむことになる。 芸術はそんな終わりの無い闘いだ。

ロープウェイがすれ違ったあと、下へ降りてゆく後ろ姿を見ながらただ登っていく深化する方の車両に身を置く。 そして思うのだ。 若い頃、つまりすれ違う前に今の知恵や合理性を使って勉強できていたらどんなに良かっただろうかと。 天才とは、それが出来てきた人たちなのだろう。 そんな天才たちがさらに磨きをかけて巨匠となる。 だが、巨匠たちは皆、口を揃えて言う。 「私には才能などない。 努力が99%、才能があるとすれば1%だ。」と。

私はロープウェイがすれ違って以来、その知恵をアレクサンダーテクニックにたくさん授けてもらった。 山上から私の上るロープウェイを引っ張ってくれた。
それは、ただ身体の使い方だけではなかった。 根本的な発想が全てを豊かにしてくれたと言っても過言ではない。

そして、今日も終わりの無い闘いに挑む。