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美を求めて

美を求めて

ピアノという楽器と付き合い始めてもう半世紀以上の時が流れた。最初15年余りはまだ道も定まらない時期だったが、聴衆の前で演奏する道を歩み始めて40年余りになる。無我夢中で良い演奏、納得のゆく演奏を追い求めてきた。それはこれからも変わることはないだろう。

そんな中でここ数年来、私の関わっている仕事を芸術と捉えながら、では、「芸術って何だろう?」と自問することが多くなった。
人はよく、これは芸術的だ、あなたは芸術家だなどと簡単に「芸術」という言葉を口にする。芸術のジャンルとされる音楽・美術・文学・演劇などは、瞬間芸術(舞台芸術)とそうでない違いはあるものの、観賞する者にある種の感動を呼び起こす、また癒しを与えるという目に見えない力を発揮する。そして、人間の持つ全てのものを表現しようとする。

私が芸術というものを考え始めたのは、ずっと若い頃から芸術は美しいものだという考えが根底にあったからだ。人間の苦しみや不条理を表現する場合も、それに共感し、感動し、それぞれの人生に重ねて深い感慨に浸るという、宗教にも通じるような生きるための糧になることに繋がると思っていたのだ。
ところが、そうではない作品にたくさん出会った。無情なビル群の谷間に吹く風を表現した作品、現代のストレスだけを音にしたもの、「美」の対極として醜いものをより醜く描いたもの、切り裂かれたキャンバス等だ。そこで聴く人や観る人をギョッとさせ、平和な感覚を打ち砕く。人々の感想は「衝撃的だった」、「刺激的だった」、「面白い」などと肯定的なものが多い。

ストラヴィンスキーが初めて「火の鳥」などの作品を世に出した時、聴衆の拒否反応は凄まじいものだったという。鳴り響くシンバルに婦人達は卒倒し、演奏の最中、舞台上にはそれを止めさせようと聴衆がつめかけ、作曲者のストラヴィンスキーは楽屋の裏口から慌てて逃げ出さなくてはならない事態に陥った。
ところが彼の作品は今日ではもう古典に近い。なんの違和感もなく皆聴いているのだ。

私個人は芸術に関わっているにもかかわらず、前述のような負の題材に即した衝撃や刺激は避けたいと思っている。ストラヴィンスキーの作品がそうであったように、時代の変遷とともにこれも人々に受け入れられていくのだろうか?

やはり「美」を求めたいと思う。美は美しいもの、うっとりする甘美なのもの、癒されるものだが、その究極はそうではない。それは真理に繋がるもの、歴史の証明だったり、人の生を超えたところにすら到達し得るものだ。そして、それはどこにでも、どんな分野にでもある。

美の追求のために私はピアノを弾いている。どんな犠牲にも変え難いことなのだ。