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バトルをめぐって

考えてみれば、若い頃から私の心と身体はいつもバトルを繰り広げてきた。いつも、先走るのは、心のほうだった。こうしたい、こうありたい、ああするべきだ、こうでなければならない、などとかなりハードルの高い方向を自らに課す。多分そこには、その当時持っていた倫理観、価値観が投影されていたのだろう。いつも現実では近づくのが難しい理想を掲げていた気がする。それは、今、職業となったピアノにおいてもそうだった。

身体は意のままにはならない。それどころか、身体の機能には、<随意>と<不随意>というものがある。随意は意のままに動かせたり、機能したりするが、不随意の機能は意志ではどうにもならないコントロール不可の元にある。また、不随意でなくても、心の指令に従ってその許容範囲を超えて身体を使っていたら、やがて身体はストライキを起こしてしまう。
この、身体の不随意運動やストライキはいつも心との間に激しいバトルを引き起こす。そのバトルの結果、大抵、勝利するのは身体のほうで、従って状況はどんどん悪化してしていく。

そんなふうに、いつも心との関係が悪かった私の身体は、ついに酷い腱鞘炎や関節周囲炎、神経の炎症などを引き起こした。
半ば諦めていた時、それが突然好転したのは、アレクサンダーテクニックに出会ってからだ。それは身体と心がバトルでするのではなく、限りなく今を受け入れ、共に手を取り合って歩むことだった。今までにはなかった発想で、新しい角度から身体を観察し、使い方を改める。以前のように激しく鼓舞したりしない。進化に繋がると疑わなかったことを一つ一つ見直して、まずニュートラルに戻してみる。
例えば、<集中する>ことを、<集中しない>に置き換える。何かに集中している時は、音楽や仕事など、そのターゲットには深く関わり、それはどんどん能率よく進んでいく。ただ、その時は他のことは目に入っていない。心のどこかには、集中しているという達成感があって、何かに勝利している感覚がある。そして、その闘争心にも似た満足感は、ますます集中力を高めることになる。しかし残念ながら、身体は置き去りになっている。
アレクサンダーテクニックにおいては、集中することを集中しないことに置き換えた時点で、すでに身体はそこに参加し、心と身体は同時に歩み始める。この場合の<心>は<精神>と言い換えてもいい。視界が良くなり、自らの身体も含め、周りがよく見えるようになる。心を満たすのは、達成感というより、安心感に似た心地良さだろうか。

こうして、心と身体のバトルは激減する。少しずつ、地味ではあるが身体が、人生が変わっていくのだ。